考えるおっぱい

日々常々。

私が服を好きになった理由

大阪は「食い倒れ」、神戸は「履き倒れ」、そして京都は「着倒れ」と昔から言われているそうだが、この表現はとてもしっくりくるなぁといつも思う。

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生まれも育ちも京都であるということは、身近に美しいものが溢れているということなのだろうと、大人になってからより強く感じるようになった。祇園祭では豪華絢爛なペルシャ織や国宝の数々を纏った鉾が年に一度、街の中心を席巻し、365日着物を着たご婦人がそこかしこを静々と歩いている「京都」という街に生まれ育った。

 

七五三で着物を仕立てに呉服屋に連れられて行ったとき、母が勧める手頃な値段(であっただろうと思う)の真っ赤な反物が気に入らなくて駄々を捏ね、店の奥に並べてあった刺繍が丁寧で美しい朱の反物を自分で選んだ。その時に母や店主が驚いたのは「このお着物は、私のものって決まっている。これ以外のお着物は着ない。」と言い放ったことだったそうだ。値が倍以上もする反物を美しいと思い選び取ったこの瞬間こそが、私のファッションへのこだわりの原点だったように思う。

 

洋服を母に買って来てもらうことは、”七五三事件”を境になくなった。どれもこれも自分で選ぶようになってしまい、頑として気に入らないものを着なくなったからだ。百貨店に連れられて、私が選び、母がそれを買ってくれる。そういう生活が続いた。色や素材の組み合わせのマリアージュをどこかで習った訳ではない。これは子供の頃からの癖なのだが、信号待ちでつい、前にいるご婦人のお着物と帯の組み合わせをじっと見てしまう。そういったことの繰り返しが、私の審美眼を育てていったのだと思う。

 

大人になってからは全くの迷走期であった。自分の美しいと思っていたものが、世間的に大きく否定されていることに気付いたからだ。赤文字系雑誌が持て囃され、そこに私の求める「美しさ」はなかったものの、社会人という名の下に制服として身につけなくてはならなくなった。箪笥を開ける度、本当に滅入った暗黒時代。7歳の私が「そんなの着るくらいなら、死んだ方がマシ!」と心で叫んでいた。

そんな時、私を救ってくれたのがファッション誌Vingtaine(ヴァンテーヌ、2007年休刊)であった。フランス人やイタリア人の着こなしを日本人向けに紹介されていて、すぐに虜になった。とにかく色が美しい。ラベンダー、ピスタチオグリーン、マゼンタピンク、ビリジアン、ロイヤルブルー、マスタードイエロー、バーガンディー…。昔、美しいと思った、素材と色のマリアージュがそこにはあった。

 

その日から、持っていたほとんどの服を捨てて「これは私のものって決まっている」と感じる洋服だけで出勤するようになった。同僚たちからはやれ、流行りじゃないだの、男ウケが悪いだの、非難轟々だったがそんなものはどうでも良かった。つまるところ、ファッションはアイデンティティーなのだ。洋服は私であり、私は洋服なのである。7歳の私に叱咤激励されながら、相変わらず私は、私の美しいと思うものと生きている。