考えるおっぱい

日々常々。

私が「遺書」を書いた日

大手広告代理店の新入社員が過労自殺をしたというショッキングなニュースで、Twitterのタイムラインは様々な意見で埋め尽くされていた。当事者(自殺してしまった人)が意見を語ることは物理的に不可能だが、幸運にも生き残った者の拙い話をここに書き残しておこうと思う。そして「死にたい」と思っている人が読者にいたなら、こういう生き方もあるのだ、と少しばかり考え直して欲しいと思う。

 

私は18歳で地元では有名な某商社に契約社員として入社した。高卒を雇うのは異例の採用だったと後で上司から聞かされた。のんびりとした田舎育ちで、社会の穢れというものを知らなかった。真面目で努力家、几帳面な性格でデータ入力をコツコツと一生懸命こなした。その頃はまだ仕事にストレスというものも感じておらず、上司や先輩方にも恵まれ、楽しく過ごしていた。

ところが21歳の時、経営者の目に止まり広報に抜擢されたのだ。アットホームな職場から一転、厳しいことで有名な上司の下、働くことになった。最初は、自分の努力が報われたようで嬉しかったが、見たこともないような難解な仕事を次々振られる様になった。分からなくても聞ける雰囲気ではとてもなかった。”ソンナコトモデキナイノ?””ググレカス”といった感じだ。社訓に「お客様の要望を第一優先にする」という趣旨のものがある。経営陣に言わせると、その真意は自分以外=上司、他部署の同僚などもお客様に含む、とのことだった。つまり「上の言うことは絶対」ということだ。真面目だった私は「期待されているから頑張らないと」と自らを鼓舞し、山積みになっていく仕事を片付けるために家に持ち帰り、図書館で調べ物をするのが日課となった。お昼休憩も休日も、全て仕事をこなすための時間として割くようになった。そうしなければ締め切りに間に合わない。そうやって数ヶ月経ったある日、体調がおかしいことに家族が気付き、心療内科を受診した。医師に「軽いうつ病ですね」と言われた。

 

①食事ができない

②眠れない

この二点が当てはまる人は速やかに心療内科を受診して欲しい。

 

そして、この「軽いうつ病」になった私への会社からの配慮は特になかった。仕事量は大きく変わらなかったし、上司が優しく接してくれる訳でもなかった。いつしか「軽いうつ病」は「完全なるうつ病」になってしまっていた。

 

どんどん増える薬に、重みを増す身体、日中頭がぼんやりして霞がかかったみたいだった。ミスも増えた。左遷されないか、毎日が怖かった。当時、我が家は母を中心に祖父を介護し、働き手が私しかいなかったからだ。貧乏のどん底に落ちる恐怖が私の無理に拍車をかけた。「高卒で再雇用なんて難しいわよ。なんとか通院しながら勤め上げられないの?」という母の言葉にも背中を押され、大丈夫でもないのに「大丈夫ですから、大丈夫ですから」と強い薬を飲んで仕事に臨んでいた日々。そんな矢先、私はついに倒れてしまったのだ。

 

そこからは地獄の日々だった。休職に休職を重ねたことにより、会社からはついに鼻つまみ者となってしまった。「特別扱いはできない」と呪文のように人事部長に告げられ、”配慮”という名目で更に仕事のきつい職場へと異動を命じられた。自主退職をさせたいのだろう、という言動は私が退職するまで延々と続いた。体調も悪化し、希死念慮が常にまとわりつくようになった。

 

体調が悪いと電話を掛けたら、電話口で怒鳴られる。

上司に「ホテルに行かないか」などの言葉のセクハラを受け、訴え出ても「うつ病だから大袈裟。コミュニケーションを取っているのも分からないのか」と逆に叱責された。

暗い個室に閉じ込められ、まるで自分が犯罪者であるかのように、男性職員二人がかりで恫喝されたこともある。

最後の異動先はトイレ掃除だった。9時から18時まで、ずっとだ。

 

私は病床から重い身体を起こして何度も遺書を書いた。誰が私に何をしたのかを事細かに書き上げた。死んだらみんなに罰が当たればいい。私が死ねば、母がそれを見つけるだろう。大きな事件になればいいと思った。ショルダーバッグの紐で首を吊ろうとしたが、何度も失敗した。死ぬこともできず、情けなかった。

 

だから私は亡くなってしまった彼女の、飛び降りた場所が会社の寮からだと聞いてとてもよく気持ちが分かる。私も同じことを考えた。会社で事件が起きれば、きっと警察沙汰にもなり、ニュースにも取り上げられるだろうと彼女は考えたのだろう。彼女の最後の復讐だったのだろうなと思うと本当に胸が痛む。

 

 

私は遺書を書くうち、会社の下らない連中のために何故私が死ななければならないのかと思うようになってきた。元来、書くことでご飯を食べてきた私にとって意外なストレス発散法だったのかもしれないと今になって思う。

私は違う復讐方法を選んだ。人事部長を思い切り怒鳴りつけて会社を辞めたのだ。人生であんなに人に怒鳴りつけた事はないくらいに怒鳴った。胸に詰まっていたものが、すっと落ちていくのが分かった。定年前の問題を起こしたくない時期に、たくさんの部下の前で盛大に顔に泥を塗られたのだから、彼への復讐は十分だろうと思った。その足でお世話になった同僚や先輩に最後の挨拶をしに行った。何故相談しなかったのかと皆に怒られたけど、ただ単純に迷惑をかけたくなかったのだ。自殺をする人のほとんどが、そう思いながら死んでいくのだろうと思う。

 

私はその後、実家を出た。うつ病と、会社での虐めの苦しみを分かち合ってくれなかった母への人生で初めての反抗だった。親友の誘いで祇園の高級クラブのホステスとして働いた。政財界人や著名人の通うクラブでは皆にとても可愛がって貰った。化粧の仕方も忘れた私に、ママがシャネルの真っ赤なルージュを差してくれた。先輩は髪を梳かして美しくまとめ上げてくれた。お下がりの上等なドレスや洋服を何枚も貰った。最初はイモ臭い私も、皆のお陰で少しは綺麗な商品になっていった。お客様もつくようになり、地に落ちていた私の自己肯定感はみるみる回復していった。そうして、私は少しずつ元気を取り戻した。

 

今、私はホステスを辞め、高卒というハードルもなんのその、前の会社と比べ物にならない程の大きな会社で働くことができている。今でも体調を崩すことはたまにあるが、配慮が手厚くて同僚や上司には感謝、感謝である。

 

 

一番の復讐は、私がこうして幸せに生きることなのだと今になって思う。

辛い時は、自分を大いに甘やかし、休息を取ることだ。

会社の代わりはあっても、あなたの代わりはいない。

うつ病はとても苦しく、辛い病だ。

治療には根気が必要だ。

けれど、絶対に治る。

絶対、治してみせると一生懸命治療をすればいい。

そうして元気になった先には”病気を知って成長した自分”が必ず待っている。

 

 

 

 

 

 

 

愛すべき、クズの咆哮

私の父は究極のクズだ。DV、浮気、幼児虐待、借金、嘘…そういう事を繰り返しながら、台風が日本列島をなぞるように(方角こそ違えど)、東から西へと移動しながら女性を泣かして歩いたらしい。母や私もまた、彼の被害者であった。ただ、私はその暗い生い立ちを話したい訳ではない。

 

私が3歳のときに離婚が成立し、全てカタがついて更に西へ父が旅立ったのは5歳の時だ。父親というものの役割を一切果たさずに私をただ創作して去って行った父を私は何故か恨んではいない。

 

ハタチの節目に祝いたいと言う父と、久しぶりに会った時のことだ。父は相変わらず歳をとらず若い風貌で、全身ブランドで決めていた。父はいつもいい匂いがして、10歳くらいは若く見えた。相変わらず、女には苦労していない様だった。

 

 

しかしながら、父は相変わらず孤独だった。父もまた、両親の愛情を受けていなかったと聞いている。青森の名家に長男として生まれ育った父は、その下にいる弟や妹に比べて出来が悪かった様で、きつく当たられて祖母の家に逃げ暮らした。その後、高校卒業後に親と縁を切り上京。友人もいない大都会で父はどうやって生きてきたのか、考えただけでも胸が痛む。

クズにはクズの事情というものがあるらしい。父はそうやって、自信のない自分をブランド物や盛った話で装飾し、人を愛するということを知らずに生きてきたのだと思う。

 

昨晩だったか、朧さん(@OB_RT)のツイートを見て気がついたことがある。

 

私は、男性から愛されたことがない。というよりか、愛され方も愛し方も教えてもらっていないから分からないのだ。だから、同じような”愛し方を知らないクズ”とばかり付き合ってきたのだと思う。愛を受けられなかった彼らの「誰でもいいから、愛をくれ」という咆哮に導かれているのかもしれない。そうして、私もまた気づかぬうちに「私を愛して欲しい」と吠えているのかもしれない。生まれてから今まで、男性からの愛を私はまだ知らない。

 

 

 

 

私が服を好きになった理由

大阪は「食い倒れ」、神戸は「履き倒れ」、そして京都は「着倒れ」と昔から言われているそうだが、この表現はとてもしっくりくるなぁといつも思う。

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生まれも育ちも京都であるということは、身近に美しいものが溢れているということなのだろうと、大人になってからより強く感じるようになった。祇園祭では豪華絢爛なペルシャ織や国宝の数々を纏った鉾が年に一度、街の中心を席巻し、365日着物を着たご婦人がそこかしこを静々と歩いている「京都」という街に生まれ育った。

 

七五三で着物を仕立てに呉服屋に連れられて行ったとき、母が勧める手頃な値段(であっただろうと思う)の真っ赤な反物が気に入らなくて駄々を捏ね、店の奥に並べてあった刺繍が丁寧で美しい朱の反物を自分で選んだ。その時に母や店主が驚いたのは「このお着物は、私のものって決まっている。これ以外のお着物は着ない。」と言い放ったことだったそうだ。値が倍以上もする反物を美しいと思い選び取ったこの瞬間こそが、私のファッションへのこだわりの原点だったように思う。

 

洋服を母に買って来てもらうことは、”七五三事件”を境になくなった。どれもこれも自分で選ぶようになってしまい、頑として気に入らないものを着なくなったからだ。百貨店に連れられて、私が選び、母がそれを買ってくれる。そういう生活が続いた。色や素材の組み合わせのマリアージュをどこかで習った訳ではない。これは子供の頃からの癖なのだが、信号待ちでつい、前にいるご婦人のお着物と帯の組み合わせをじっと見てしまう。そういったことの繰り返しが、私の審美眼を育てていったのだと思う。

 

大人になってからは全くの迷走期であった。自分の美しいと思っていたものが、世間的に大きく否定されていることに気付いたからだ。赤文字系雑誌が持て囃され、そこに私の求める「美しさ」はなかったものの、社会人という名の下に制服として身につけなくてはならなくなった。箪笥を開ける度、本当に滅入った暗黒時代。7歳の私が「そんなの着るくらいなら、死んだ方がマシ!」と心で叫んでいた。

そんな時、私を救ってくれたのがファッション誌Vingtaine(ヴァンテーヌ、2007年休刊)であった。フランス人やイタリア人の着こなしを日本人向けに紹介されていて、すぐに虜になった。とにかく色が美しい。ラベンダー、ピスタチオグリーン、マゼンタピンク、ビリジアン、ロイヤルブルー、マスタードイエロー、バーガンディー…。昔、美しいと思った、素材と色のマリアージュがそこにはあった。

 

その日から、持っていたほとんどの服を捨てて「これは私のものって決まっている」と感じる洋服だけで出勤するようになった。同僚たちからはやれ、流行りじゃないだの、男ウケが悪いだの、非難轟々だったがそんなものはどうでも良かった。つまるところ、ファッションはアイデンティティーなのだ。洋服は私であり、私は洋服なのである。7歳の私に叱咤激励されながら、相変わらず私は、私の美しいと思うものと生きている。

 

 

 

 

妊娠するということ

今日は、友人の営むビストロに食事に行った。

彼女はたった一人で、この店を切り盛りしている。

小さいお店なのだが、私はそこが一番のお気に入りポイントなのだ。

彼女と他のお客さんとの距離が近く、一人で行っても大家族の食卓よろしく、賑やかに食事ができるのがとてもいい。

そんなお店の、いつも彼女が腰掛ける椅子に、首を傾げてしまうものを見つけた。

 

『たまごクラブ』

そう、マタニティ雑誌である。

 

彼女は結婚もしていないし、彼氏もいないと言っていたわけで。

「客が置いて行ったんだな」と勝手に思い巡らしていたらば、私の視線に感づいた彼女が急に平謝りしてきたのである。

 

「まだ結婚もしていないので、なんて言ったらいいかわからなくて…ほんとごめんなさい!」

 

あぁ、私が常に結婚したいなどと言っていたから内緒にされていたのか、と他のお客の「妊娠のこと、知ってましたよ」という顔を見てようやく気付いて、急に寂しくなった。

絵の具を含んだ筆を、一気に水の入ったバケツの中でかき回したような、濁った、なんとも言えない気持ちが広がった。

 

お祝いにと、彼女お手製の紫蘇ジュースで乾杯をしながら、妊娠や結婚をすれば幸福なのだろうかとぐるぐると考え込んでいた。

正直なところ、結婚どころか彼氏の存在すらない私にとってはとても羨ましい話である。

だけれども、急に宇宙の果てからドドーンとやってきたような”我がお腹にいのち”という状態を考えてみたら正直怖いような気持ちしかしない。

どうやら、旦那にしろ、彼氏にしろ、ましてや赤ん坊に至っては、”ご縁”という名の下に、心の準備ができている人からやってくるものらしい。

今にも欲しいようで、本音では「今ではない」と自分でも分かっている。

「結婚したい!」は30になって女性という”性”と”子宮”という臓器を持て余している私の挨拶のようなものなのだ。

 

自分に向けられた哀れみの視線を弾き飛ばして、自転車での帰り道。

それでも星はすごく綺麗で、月が優しかった。

彼女がこれから受け取るであろうたくさんの幸福に、今とてもワクワクしている。